散陽ホームページ

 

■散陽とは、、、

散陽(さんよう)は、太陽光の屈折により太陽が複数に散ったようにみえる現象である。
 
散陽を引き起こす要因に関しては、これまで様々な説が提唱されてきたが、未だその完全な解明には至っていない。現在、最も有力とされている説は、アストン・シバティの提唱する「アストン散陽説」であるが、本説によれば散陽は、太陽光が大気圏中で反射・散乱・分解を繰り返したのち、地上に届くまでの間、特定の電磁波による干渉を受けることで、受光できるエネルギー密度が変化するために起こるとされている。
散陽は通常50年に1度観測されると言われているが、これは、地球の大気圏中に観測される太陽光の光交点が常時移動しており、その移動周期が約50年であるためと考えられている。この移動周期を割り出したのがアストンであることから、この周期は「アストン周期」と呼ばれており、また散陽の観測されうる期間を一般に「アストン期間」と呼ぶ。このアストン期間には、散陽が少なくとも1回、多い時には2回観測される。まれに、7回観測されることもある。逆に、期間中であっても散陽の観測されないこともある。
 
散陽観測時は、太陽と地球との相対的な関係性および、それらの構造的・物理的性質を調べる絶好の機会とされ、太陽系はもちろん、恒星一般の研究にも大きな役割を果たしている。
 
近代天文学が確立する以前、日本を含む世界各地で散陽にまつわる神話が数多く語り継がれてきたが、それらの言い伝えによれば、散陽は「複数の神秘的な力の対立や争い」によって起こるとされている。日本における古代の神話にも散陽を描写したと思われる記述が度々登場するが、散陽として記述された最古の文献は、室町時代の「南花寺覚書」とされている。また、インドの神話では、「二つに分かれた太陽を魔神として擬人化し、この二神の働きによって自然災害・武力闘争が起こる」とされており、この神話も散陽に起源するものと考えられている。
 
2009年は日本の50年に一度の散陽季節であり、2月末から3月上旬に栃木県真岡市で観測できる。

 

■乱太郎(散陽祭)


乱太郎(らんたろう)または散陽祭(─さい)は、栃木県白鳥神社の祭事である。50年一度、太陽が複数に見える現象「散陽」時におこなわれる日本古来の祭事である。また、太陽信仰の深い日本の三大太陽祭りにも数えられている。
起源は、室町時代とされ、散陽を戦や疫病の神として古くから信仰されており、それらを祈願するものであったと推測されている。近代天文学が確立する以前、日本だけではなく、世界各地多くの文明で散陽を説明する神話が長い間語り継がれてきた。これらの神話の多くでは、散陽は複数の神秘的な力の間の対立や争いによって起こるとされている。
 
■起源


応永19年(1409年)室町幕府四代将軍であった足利義持が始めたといわている。 当時、関東全域で疫病〔えきびょう〕が大流行していた。時同じく散陽が観測され、人々に祟りとして恐れられ、足利義持の命を受けた斯波 義重が白鳥神社に行き疫病退散を祈願したことが祭りの起源だったとされている。また、義持の命を受けたのが斯波 義淳とする説もある。以来、「散陽」を火之神とし敬い、栃木県真岡市の磯山頂上にて盛大な神事として50年一度「乱太郎」を行なっており、多くの文献や日本絵画・写真によって記録されている。


■     概要


本祭は50年一度2月に白鳥神社付近にある磯山でおこなわれる。磯山に真岡市内から選出された芸能部・踊り方 男女7名を神事の象徴として参加し、また複数人の演奏家が楽器方として参加し、祭りを盛り上げる。散陽が観測される正午、祭はピークに達し、祭の象徴である日女(ヒルメ)の衣装が大きく開くと人々は祈願を行うことになっている。最近では、日食祭と同様に様々なジャンルの音楽を取り入れ音楽祭としても盛り上がりつつある。関連神社(通称:小宮)でも5年に一度同様の祭りが実施される。その中で代表的なものが、若杉市の辰野町境界付近にある藤井神社の御柱祭である。白鳥大社の勇壮さ・音楽的な美しさに比べ、藤井神社の御柱祭はきらびやかな青の衣装が特徴であり、「音を聞きたけりゃ白鳥、綺羅を見たけりゃ藤井」などと昔から言い伝えられているものである。
 
・ 日女(ヒルメ)1 名。若い女性。式の象徴。
・ 宿(ヤドリ)4 名。男性。日女の周りに立ち、散陽鏡を持ち太陽と照らしあわせる。
・ 巡(メグリ)2 名。男性。朱色の長い棒を持ち。日女の補佐役。
・ 奏日(カナデビ) 演奏担当。
 
直近に開催されたのは藤井神社で2004年、次回開催は50年に一度の本祭であり、2009年2月24日である。

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